投稿

7月, 2020の投稿を表示しています

神経過敏社会(5)

イメージ
カメラを持って散歩していたら、「Picture !  Picture !」と頼まれたので、はい、パチリ。   SNSの登場で世界は一変しました。 SNSが利用できるところであれば、世界中とつながりあうことができるのです。 世界がSNSの恩恵に浴する 一方で、深刻な問題も浮き彫りになってきました。 ある国の政治・経済を混乱させるために、サイバー・テロを仕掛ける国々。中国、北朝鮮、ロシアなど。悪の枢軸といってもいい。 特に中国のタチの悪さは万死以上の億死に値する。中国に異を唱える国は、力ずくで押さえ込む。極悪ヤクザ以上のならず者国家そのものです。 ここでは個人間のSNS上の誹謗中傷問題だけに絞って考えていきます。 「モグラたたき」という言葉があります。ある問題を解決する。すぐに次の問題が起こる。解決しても次々に新たな問題が出てくる。キリがない。 AI技術を駆使して悪質な投稿を削除する会社があるそうです。一時的に中傷記事を削除しても、すぐにまた別の悪意のある投稿が繰り返される。 SNSの機能の一部を遮断して、ユーザー間のつながりを制限してしまう。方法としては効果的だとは思いますが、これは非現実的でしょう。良心的なユーザーに対する迷惑などを考えると、画餅に帰すだけですから。 SNSに過激な中傷を投稿するユーザーはごく少数で、大多数は道理をわきまえたユーザーです。道理をわきまえたユーザーのほとんどは、いわば「声なき声」で内心では中傷記事に批判的な考えを持っているのでしょう。 「Silence is V iolence.」(黙っているだけでは、暴力に加担しているのと同じ) 今年2020年5月、アメリカのミネアポリスで、白人警官が黒人の容疑者を拘束する際に、容疑者の頸部を圧迫して窒息死させた事件が起こりました。黒人を差別する殺人です。アメリカをはじめ世界の主要都市で、人種差別への抗議デモが繰り広げられ、その時のスローガンが上記の「Silence is Violence」です。 なにか事が起こる。SNS上で賛否が沸き起こる。日本の場合の弱点は、付和雷同してある一つの意見に多数の人が流されやすいことです。日本人の思考行動の同一性が今だに大勢を占めることがよく見られます。 「声なき声」は時に傍観者とも見なされます。見ざる言わざる聞かざる。なにもしない。常に「声なき声」でいいとはいえませ

神経過敏社会(4)

イメージ
フィリピン人もパンをよく食べます。 昨年の4月に一週間ほど一時帰国しました。 ある日、電車に乗って車内の風景を眺めてみると、ほとんどすべての乗客が、スマートホンに目を落としていました。 新聞や本を読んだりしていた時代が嘘のようです。スマートホンさえあれば今の時代は生活に必要なかなりの部分の用件を満たすことができるようになったのですから、まあ、無理もないのでしょうね。 すでに公開した「日本人の品格」(最終回)でご紹介した山崎正和氏が、7,8年前に「文藝春秋」に寄せた小エッセイの中で次のように書いています。 電子情報は不毛の砂漠 「電子情報の世界の状況。情報検索は便利になって、たいていの知識の断片は検索サイトで一瞬のうちに入手できる。そのさいわかることは検索者が自分で知りたいと思ったことだけである。 新聞や雑誌や書物など、活字文化でものを知ろうとすれば、それにたどり着く過程で必ず別の情報が目に触れ、余分な知識が頭に入るのだが、その無駄が電子情報にはない。 自分の知りたいことだけに目を向ける。無駄や回り道のない世界は痩せた不毛の砂漠に変じてしまう。知の獲得と創造に関するかぎり、電子情報は不毛の砂漠」 アメリカのトランプ大統領がツイッターで重要な政治情報を発信するようになってから、世界中の政治家も真似をするようになりました。政治家の意見が非常に「軽く」なってしまった感があります。 そこらの売れない芸能人が、世間の注目を得るために、大して意味のないことをつぶやくようなものですね。 ただ単にツイートする(つぶやく)ということは、頭をさほど使うことなく、粗雑でブツ切りの文章を直截的に発信してしまいがちです。 下記は上記と同じ7,8年前の「文藝春秋」に載った小エッセイです。高階秀爾氏(美術史学者)の小エッセイです。 人文学の復権を 「ーーーーいずれの場合も、私を唖然とさせたのは、その言葉づかいの醜さである。自分の意見や感情を表明するのに、日本人はいつからこのような汚い「暴言」を使うようになったのだろう。何にせよ発言には最低限のマナーというものがあるのではないだろうか。 「人間性の感覚」を養い育てたものは、西欧の「ユマニスム」(人文学)の精神。人間は動物にはない理性と自由意志を持つ故に、その言動には「責任」が伴う。また、神の前では不完全な過ち得る存在である故に、他人に対する「配慮、寛

神経過敏社会(3)

イメージ
庶民の食堂「カレンデリア」   街町のいたるところにあります 「節度」そして「恥」について 自分の思うことを自由に発言することができる。日本は、この「当たり前のこと」を当たり前の権利として行使することができる国です。 SNSを取り巻く日本の社会を見てみます。 一般の人たちはもちろん、政治家・芸能人・スポーツ選手・評論家、そのほか、わけのわからない連中などが無責任な発言をSNSに毎日、汚泥のようにタレ流しています。こうした風潮が蔓延してしまった根本的な原因について、チョット考えてみました。 人の社会には歴然とした区別があります。 区別と差別は全く違います。区別というのは、異なる社会組織の中で、ある一定の秩序を保つために必要なものです。たとえば、政治家は政治家らしく、芸術家は芸術家らしく、医者は医者らしく、芸能人は芸能人らしく、スポーツ選手はスポーツ選手らしく、評論家は評論家らしく、ヤクザはヤクザらしく、わけのわからない連中はわけのわからない連中らしく、それぞれがそれぞれの分野でそれなりに自分の本分に専念していけばいいと思うのです。 人の職業には、いかにも、さもありなんという、その職業にふさわしい「顔立ち」というものがあります。 政治家は政治家らしい顔、医者は医者らしい顔、芸術家は芸術家らしい顔。 いつの頃からか、どの職業でも皆、顔立ちが同じようになってきた感じがします。普通の会社の万年係長・万年主任のような風貌が、政治家の中にも多く見られるようになりました。 芸能人と呼ばれている人種。 彼らのうちの相当数は、品性の「ひ」の字もない下種下人(げすげにん)といったら下種下人が怒るほどの下種下人以下と呼ぶにふさわしい。 芸能記事は、大体において、どの国でも大差ありませんが、日本のそれは余りにも下劣でガキのレベルといってもいい。 一例が、不倫記事。誰かが誰かと不倫をした。それについて、さまざまな階層の"有名人”が、ああでもないこうでもないと、まるで中学生がいうようなことをSNSに流している。二十歳もとうに過ぎたいい歳をした男と女が、不倫をしようが何をしようが、そんなことはさして取り立てるほどでもないでしょうに。 前東京都知事の舛添にいたっては、自分のチマチマとした生活用品を公費で賄い、世間の嘲笑を買って辞任に追いこまれました。舌の根も乾かないうちに、テレビのクイズ番