2021年・日本の夏・雑感(前編)



上の写真は文字どおり、読んで字のごとく、「アパテル」。アパートとホテルを組み合わせた名称です。
セブに長期滞在する機会があれば、ホテルなどではなく、「アパテル」とかタウンハウスを借りて住むのも一興です。
下は、完成直後のタウンハウス。(犬はどこにでもいますね)


2021年(令和3年)の日本の夏が終わりました。

新種のコロナウイルス変異株が猛威を振るう非常事態のなかで、一年遅れの「2020年東京オリンピック・パラリンピック」が敢行されました。

オリンピックの結果はメダル総数58個。内訳は、金27個、銀14個、銅17個です。パラリンピックはメダル総数51個。内訳は、金13個、銀15個、銅23個です。オリンピックもパラリンピックも圧巻の成績です。

日本中でコロナ感染者が日ごとに増加していき、大会関係者や各国選手団にも罹患者が出たにもかかわらず、競技の運営に危機的な状況をもたらすこともなく、無事に全種目の日程を終了させたことは、私たち日本人の誇りといえます。日本は世界に、日本の威信を示すことができたのです。

東京オリンピック・パラリンピック(以下、五輪)開催までの道のりは実に険しいものでした。開催か中止かの是非が論じられ可否が問われ、世論は完全に二分された、というよりも、一部のマスメディア主導による反対勢力が賛成派勢力を封じ込めようとしている印象を強く持ちました。

セブ島にいて日本の様子を知るために私はパソコンのヤフーニュースや各新聞の無料電子版ニュースなどを利用しています。(無料で読めることは、何とありがたいことか)
ごく限られた情報網の中でも、ヤフーニュースのひとつに、ひときわ目を引く記事がありました。

2020年6月に「神経過敏社会」というタイトルですでに掲載してありますが、SNS上での謂われない非難・個人攻撃問題です。

今回の被害者は、水泳の池江璃花子選手です。皆さんもよくご存知でしょう。2019年2月、白血病と診断された池江選手は10カ月の闘病生活を終えて2021年2月に復活を遂げ、オリンピック出場の座を獲得しました。

SNS上には池江選手への心からの温かい応援の声が数多く寄せられた反面、例によって、誹謗中傷やら罵詈雑言が、異常ともいえる口調で押し寄せたのです。

池江選手は政治的に利用されたという点で、普段私たちが目にする個人間のSNS誹謗中傷問題とは異なっています。

オリンピック開催推進派にしてみれば、池江選手に勝る「広告塔」はありません。
白血病に打ち勝ってオリンピック出場を果たした。コロナ禍で活力を失いつつある日本人に勇気を与えることができる。

話題性は十分です。マスメディアはこぞって飛びつきました。著名人も声援を送った。開催賛同派にしてみれば、これでコロナ禍という大逆風での開催にも世論の共感を得ることができるだろう、という思いを強くしたに違いありません。

オリンピック開催反対派にしても、池江選手は格好の「広告塔」でした。
日本人ひとり一人が皆、コロナ禍で自粛を余儀なくさせられている。お祭り騒ぎなどをしている場合ではない。

無観客開催とはいえ、日本以上のコロナ惨禍の外国から人々を入国させたりすれば、日本人の感染者がさらに加速する。断固として中止すべきだ。
池江選手に圧力をかけて出場を辞退させれば、開催中止に大きな弾みがつくだろう、というのが反対派勢力の思惑だったのでしょう。

開催の賛否がSNS上でも各マスメディアでも真っ向からぶつかり合ったのです。これまでの日本の世論としては、あまり類を見ないほどの激しさでした。日本人間の「分断の兆し」が顕著になりつつあるといってもいいのではないか。

その一番の原因は、やはり、SNSでしょう。とにもかくにも、猫も杓子も、いいたい放題をいい放つことが常態化している。SNSがもたらす日本人の分断は、何か事があるたびに、今後ますます先鋭化していく気がします。世界の多くの国々でも同じようなことが起こっているとみて間違いないでしょう。

全大会が終了した今になって思えば、誰でもが何とでもいえます。

開催可否の判断は、運営当事者たちにしてみれば、非常に厳しく困難であったことは想像に難くありません。

2020年五輪開催で考えたことがあります。

コロナ感染者や重症患者が増えて病状が悪化して死亡者数も高まる危険性を抱えたまま五輪を開催した意義はどこにあるのか。とどのつまり、個人の命と国家の威信のどちらが優先されるのか、という問題です。

皆さんはどのように思われますか?

ここで、五輪の歴史をごく簡単に振り返ってみます。
現代五輪の起源となったのは、紀元前9世紀ごろに古代ギリシャで開催された「古代オリンピア祭典競技」だといわれています。

時は流れて1896年、アテネで第一回「近代オリンピック」が開催されました。14の国が参加しました。フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵の構想に基づいたものです。開催の理念は「スポーツを通じて心身を向上させ、文化や国籍の違いを乗り越え、平和な世界の実現に貢献する」ことでした。
五輪の目的はあくまで「世界平和の維持と確立に寄与すること」であり、国威発揚や経済的効果ではありません。

さらに時は流れて1952年、「ヘルシンキ大会」が開かれ、東側陣営の大国、ソビエト連邦が初参加したのを機に、その後の五輪はあたかも、スポーツ版の東西冷戦ともいえる趣を、ややもすると呈するようになりました。五輪は「平和の祭典」だとことさら強調されるようになったのもこのころからです。裏を返せば、それだけ政治色が色濃く反映されるようになってしまったということでしょう。

4年に一度の大会が世界の主要都市で開催されるにつれて、五輪の規模も拡大し、本来の理念は絵空事として隅に追いやられ、今日の金権五輪へと変貌してきたのです。カネの問題ばかりではなく、各国家間の政治・ナショナリズムなどの要因も複雑に絡み合い、今や五輪は純粋なスポーツの祭典とは縁遠い存在になってしまいました。ちなみに、2020年五輪の参加国・地域の総数は207にも上ったそうです。

私たちを取り巻く社会は、ほとんどすべての事柄に順位という考えが入りこんでいます。
中国の人口は世界一だ。会社では誰誰が一番の売り上げを達成した、学校では誰誰ちゃんが一番の成績を残した。

今や国家間の権益がむき出しになったといってもいい五輪に至っては、メダルの数こそが、その国の威信を示す明確な数値だと見なされるといってもいいかもしれません。国家ぐるみで五輪代表選手を育て上げるのも当然です。

さて、ここで、だいぶ前の大事件ですが、ご紹介します。
1977年、バングラデシュ・ダッカ国際空港における日航機ハイジャック事件です。
9月28日、フランスのパリ、シャルル・ド・ゴール空港発東京行き日本航空472便が経由地のムンバイを離陸後、拳銃と手榴弾で武装した5名の日本赤軍テロリストによってハイジャックされ、ダッカ空港に強制着陸させられました。

5人は人質を取り、身代金として600万米ドル(当時の為替レートで16億円くらい)と日本で服役中の過激派9人の釈放を、日本政府につきつけました。拒否でもしようものなら、人質を一人ずつ殺害する、と通告したのです。

「人の命は、地球よりも重い」
時の総理・福田赳夫の言葉です。
日本政府は犯人側の要求をのんで身代金の支払いに応じ、超法規的措置により6人を釈放しました。

日本国の信頼と威信は地に落ちました。日本赤軍5人の前に、当時の日本国民1億1千万人強が跪いたことを意味します。

現代五輪はカネがかかり過ぎる、政治色が強すぎる、などなど、多くの批判があります。しかしながら、一国が手を挙げて五輪開催の権利を獲得したという事実は、参加国や出場選手たちに、日本国が責任をもって開催することを公約し、全世界に向けて表明したわけです。個人が世界に向けて宣言したのとはわけが違うのです。

五輪開催時の個人の生命も、上記の「日本赤軍ハイジャック事件」の個人の生命も、いかなる状況下での個人の生命も、かけがえのない人の命に程度の差があるわけではありません。
国の威信など、気にする必要はないだろう。個人の命の尊厳は国家の威信よりも優先されることがあってもいいのではないか。このような考えがあることも、よく理解できます。

これは私の考えです。
いかなる場合でも、国家の威信は個人の命に勝ります。
個人の存続が可能なのは、国という器があるからこそなのです。このことは決して忘れてはなりません。そして、国家という器の質は、剛堅でなくてはなりません。
国民ひとり一人の生活の質の総力が国の威信をつくりあげ、国の威信が国民ひとり一人の生活の質を向上させているのです。このことも決して忘れてはなりません。

2020年五輪は無事閉幕しました。日本国の威信は保たれたのです。

【お知らせ】
下記はトッポジージョさんのURLです。トッポジージョさんの尽きることのない知識の一端に触れてみてください。旺盛な好奇心による「知識の泉」に、身を浸してみてください。


追記:東京五輪の女子55キロ級重量挙げで、フィリピンのディアス選手が、フィリピンに史上初の金メダルをもたらしました。

セブでもこのニュースは人びとの間で大きな話題となり、デュテルテ大統領をはじめ、財界はもちろん個人の素封家からも、次から次へと報奨金の申し出が相次ぎました。
五輪終了の時点で、すでに日本円にして1億数千万円にも上る報奨金が集まったのです。金銭に加えて、大手のデベロッパーからは高級コンドミニアムが無償贈与され、フィリピン航空からは生涯無料のチケットの特典が供与されます。その他、あれもこれもーーー。

ディアス選手の人生は、五輪によって一夜にして、「シンデレラ的フィリピーナ」とも形容できるほどに変わったのです。
家族縁者の絆が強いフィリピンに帰国した瞬間から、ディアス選手の周りには、下世話ないい回しになりますが、「砂糖に群がるアリの如く」援助を求める人々が集まることでしょう。「持つ者」が「持たざる者」に施しをする。この国では当たり前の行為です。とはいえ、何事も、ほどほどにしないと、今度はディアス選手の人生が、一夜にして、暗転してしまうことにもなりかねません。

















コメント

  1.  理路庵先生、ブログ更新ありがとうございます。

     9月10日の読売新聞に鈴木一人・東大教授の意見が載りました。
    我が意を得たりと思いましたので以下にその一部をご紹介します。
    ・・・
     国内政治の中で、五輪が過度に政治化されてしまったことは非常に違和感があり、残念だ。
     第2次安倍内閣が発足した直後の2013年に招致が決まり、16年のリオデジャネイロ五輪の閉会式に安倍晋三首相(当時)がマリオの姿で登場した。東京五輪は「安倍プロジェクト」の色合いが強くなってしまった。
     このため、国内の「反安倍」勢力が、東京五輪を攻撃のターゲットにした側面があったのではないか。「五輪が良いか悪いか」という議論ではなく、「安倍・菅プロジェクト」だから駄目だという論理になった。
     「パンデミック(世界的大流行)の最中に五輪をやるな」という批判は一理あるとは思うが、「五輪で外国人が来たら感染爆発が起こる」という主張は行き過ぎだった。外国人差別、排外主義に近いものを感じた。実際は感染防止のルールに違反した海外選手らは少数で、五輪が感染拡大につながった証拠はない。
     ただ、五輪が過度に政治化した最大の理由は、菅首相のメッセージ不足だ。首相は「安全・安心な大会を実現する」と念仏のように繰り返すばかりで、批判に対して「こういう理由で五輪を開きたい」「安全安心とはこういう意味だ」といった具体的な説明が不足した。メッセージが足りないので、批判はさらに過激になった。
     大会の運営は成功して日本人のメダルも多く、結果的に良い五輪だった。世論に肯定的に捉えられたと思う。無観客であってもボランティアの努力が光った。
     五輪に反対していた人や一部メディアも手のひらを返したように、あまり文句を言わなくなった。大会が盛り上がって批判しにくいのも理由だろうが、五輪が菅内閣の支持率上昇につながらなかったので、目的は達成できたという意味もあるのだろう。
    ・・・
     『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』の典型ですね。客観報道に必要な是々非々の姿勢が一部のマスコミから消えてしまったのではないでしょうか。最近の世論調査で菅内閣の支持率が30%と低いにもかかわらず、菅総理の実績については6割以上の人が肯定的に評価していました。デルタ株の感染拡大もピークアウトが顕著に見えてきて、ロックアウトもしないでコロナ禍の終息が見えて来たことを思えば『良くやった』と思います。

     福田赳夫総理の『超法規的措置』がなぜ問題にならなかったのか当時から不思議な気持ちがしていました。行政が法律を超えて権力を行使することは厳に慎まなければならないのは、日中戦争を泥沼化した関東軍の逸脱行為と条件は違い法治国家としては同じ構図だからです。
     法治国家の根本を逸脱する一大事を『人命は地球より重い』などという陳腐な言葉で糊塗した福田赳夫のような人物を私は嫌います。
     昭和31年に日ソ共同宣言を結んで帰国した鳩山一郎総理は羽田空港に降り立ちマイクの前で無念の涙を流しました。戦後11年を経てもなおシベリヤに抑留されていた同胞がいた。彼らを人質にされ、領土問題ではソ連の言うなりの結果となってしまったからです。鳩山家の『友愛』精神などこんな極限状況では『屁の突っ張り』にもならなかった。それでも鳩山一郎は申し訳なさに国民の前で泣いた。福田赳夫はこともあろうに『人命は地球より重い』とのたまわった。五年前の1972年に起きたテルアビブ空港乱射事件では、日本赤軍の奥平、安田、岡本の3名のテロリストが銃を乱射して26人を殺害し73人に重軽傷を負わせた前代未聞の大事件を起こしているのに言葉が軽すぎると私は思ったのです。為政者の矜持とは何かを考えさせられました。

     今回のブログ、外国で暮らす先生が『国』を語ることの重さを感じて様々なことを考えてさせられました。
     

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  2. 2020東京オリンピック、パラリンピック感動をありがとうございました。

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