神経過敏社会(終章)
いわゆる「ワイドショー」なる番組が世に登場したのは、1964年4月のことだそうです。政治・経済・社会問題からスポーツ・芸能界の話題にいたるまで、幅広い分野の情報を提供することから「情報番組」とも称されるようになりました。
政治や経済などの問題は、ややもすると、素人には取っつきづらく敬遠されがちですが、それらの分野の専門家による解説だけでなく、スポーツ界や芸能界の著名人の意見も交えることによって、お茶の間の視聴者の耳目を集めるようになったことは、ある一定の評価につながるといえます。
時は移り、やがて1980年代半ばから始まる経済成長(バブル)期へと日本は進んでいきます。時代の流れに合わせて、世の「ウキウキ」気分そのままに、ワイドショーも次第に人気取りを前面に出すだけの低劣で劣化した内容に堕ちていくようになりました。
政治家も経済学者も社会評論家もスポーツ人も芸能人も皆、横一列になってほとんど同一レベルで諸問題を喋る傾向が顕著になってきたのです。
無責任に無節操に臆面もなく節度もなく恥もなく、いいたい放題の風潮が日本中を覆いつくすようになりました。ワイドショーはまさに今日の日本の社会世相の一断面を反映しているといってもいいでしょう。
さらに時は移り、1990年代半ばころから日本はSNSの時代へと入っていき、今日の一部のSNSユーザーに見られる「SNS白痴化」現象をもたらすことになったのです。人の箸の上げ下げ的な、取るに足らない情報が、「神経過敏症」ともいっていいほどSNS上に毎日のように垂れ流されています。
さて、そろそろ結論。
前回、二つのエピソードを挙げました。
(A)は、イジメに遭った小学生が自分で考えて行動してイジメに打ち勝った例。
(B)は、若い人たちに接するときの大人がとるべき一つの態度の例。
(A)の事例は今から60年くらいも前の話です。少年犯罪が成人のそれと同等に残酷さを増している今の時代に、(A)の少年のような小学生が、果たして、いるかどうか。一歩間違えれば、殺傷沙汰にもなりかねなかったかも知れない例ではありますが、少年が取った行為は、ある示唆を私たちに与えてくれています。
(B)の事例は今から47年くらい前の話です。未成年者に対する大人の取るべき態度として大いに参考になります。
今は「子供中心主義」の時代といってもいい。厳しい躾は反時代的だと非難される。子供や未成年者といえども、甘やかしてはダメです。叱る時には厳しく叱らなければなりません。
(A)も (B)も、当時と今とでは時代が違う、といってしまえばそれまでです。
世の"教育評論家”たちは提言します。心身ともに未発達な10代の子供たちを社会の弊害から守るためには庇護者が救いの手を差し伸べる。家では親が学校では先生が地域社会では大人が、そして、国の行政機関が彼らを援助する。
もっともな意見ですが、今の日本の多くの家庭は共稼ぎで、親は仕事などのストレスで疲弊し、家で子供にきちんとした躾を教えこむ時間も気持ちのゆとりも制限されているでしょう。
学校の先生は授業のほかに課外活動に多くの時間を取られて心身ともに摩耗し、はたまた、生徒に体罰を加えようものなら、親が血相を変えて怒鳴りこんでくる時代です。
地域社会のつながりなどはほとんどなく、近隣は他人の子供にほとんど無関心です。行政機関の手助けといっても限度があります。
子供が小さいうちから親は徹底的に繰り返し、「ダメなことはダメなのだ」「弱い者をいじめるような卑怯なまねをしてはいけない」ということを、洗脳といったら語弊がありますが、子供の頭に植えつけなければなりません。
バブル経済を機に日本は際限のない金銭至上主義へと突っ走るようになりました。能率・効率一辺倒に邁進していくうちに、人の情緒も次第に衰退してきています。
現代の日本の多くの親は、子供を厳しく叱るという行為を放棄しています。無理もありません。当の親自身の中には子供のときに親から厳しい躾を受けた経験がない人たちがたくさんいるのですから。
人の心身の痛みが分からないまま大人になって、「手加減」という限度も知らずに、相手に危害を加えたり誹謗中傷したりする。
SNSに限らず、人から「痛み」を受けたときの自分をどのように守るか。
自分を守る一つの役に立つ方法としては、せめて中学生あたりから、できるだけ多くの本を読むことです。人はいうまでもなく、言葉によって考えるわけです。私たちの言葉は日本語です。きちんとした日本語で考える。そして、自分自身が今いる環境の中で自分の「立ち位置」を掴むようにする。
たとえば、将来に大志を抱くものはそれに向かって努力すればいい。さしたる希望もない人は、それなりに自覚して生きていけばいい。自分はどのようにあがいてみても自分でしかありえないと思う人は、それに沿って進んでいけばいい。自分だけの「独りよがり」でいい。他人は関係ない。人にどのように思われてもいい、自分はあるがままの自分でいい。
本を読んで自分自身の頭で考える「訓練」を、やはりこれも中学生くらいから心がける。
人に対する思い、人に対する想像力が欠落していると、人の心身に危害を及ぼしてもなにも感じないロボットのようになってしまう。だから、自分の頭で考えて、自分の言動が相手を傷つけてしまうのではないかという想像力を養う必要がある。
むずかしく考える必要はありません。こうしたらどうなるだろう、ああしたらどうなるだろう、という具合に、いろいろと思いを巡らせることです。そんなことはいつもやっているよ、と反論する人もいるでしょう。ところが、自分で思うほどには考えていない人が多いのです。
テレビやSNSなどで多くの時間を受動的に過ごしているうちに、自分で積極的に考えぬく意志の力が削がれてしまっているのです。ちなみに、考える力を養うには、別に本を読まなくても、やろうと思えば誰にでもできることです。
ただここで気がかりな点は、日本語が乱れすぎてもうほとんど修正がきかなくなりつつある、ということです。
SNSの浸透も日本語を乱した一因ですが、大本の主犯はやはり経済至上主義です。行き過ぎた市場経済が人としてあるべき情緒を麻痺させつつあります。その結果、感情を失くした無表情の醜悪な顔の人間もどきが、かつての「レナウン」のコマーシャル・ソングのように、「ワンサカワンサ、ワンサカワンサ、イェーイ、イェイ、イェイ、イェイイェイ」と、あっちでもニョキニョキ、こっちでもニョキニョキと増殖し続けています。
SNS上で謂われない攻撃を受けたり、学校で仲間外れにされてイジメられたりしたときの「特効薬」などはありません。されば、自分を強くすることです。人によって方法はいろいろあるでしょう。毎日必ず実行することを決めて、それを続けることによって自分の意志力を高めていく、などなど。
親や周りの人の助けを借りるのも得策ですが、最後は時に自分一人で解決しなければならない場合も多くあります。
周りの雑音に極力惑わされることなく、たった一回しかない生をどのように生きるか、ということを、投げやりになったりしないで疲れ果てるまで考えぬいて、自分の道を見つけて切り拓いて生きていってください。
未成年者を対象として今まで私の考えを書いてきましたが、成人でも中高年者でも、種々の危機に陥ったときの、せめてもの対処法は上記のとおりです。つまり、煎じ詰めれば結論はこうなります。
「人は考えることによって強くなる」
私の子供のころをふと、思い返してみると、人づきあいが不得手であったにもかかわらず、それなりに近所の友だちやら学校の友人やら、なんだかんだと人と人どうしのつながりがありました。相手の顔を見ながら話をするナマの会話にあふれた時代でした。
今の時代は違いますね。SNSを媒介とする機械上のつながりがほとんどですね。
やはり、人と人との直接的なつながりが、SNSによって減じられていることは、人の心のあり方に、多少なりとも影響を及ぼしているのでしょうね。
*もしお時間があれば、すでに公開した「日本人の品格」を併読していただければありがたいです。
*追記:ここでいう「子供」「年少者」「若年者」などの年齢層は、だいたい10歳くらいから17歳くらいまで、また、「学校」の先生の「学校」とは、小中高校を指します。
「神経過敏社会」の製作お疲れ様でした。
返信削除これは哲学的でも人文科学的ではありませんが、日本国でも漸く法務省、総務省などがSNS上の虐めや誹謗中傷にたいして法的な対応策を簡略化するように動き出したみたいです。
法的には軽犯罪法1条33号(貼り紙等)
刑法234条(威力業務妨害)
刑法231条(侮辱罪)
刑法223条(強要罪)他とプロバイダーへの発信者情報開示請求の簡略化です。
現状は発信者の特定はかなり難しく、プロバイダー各社のデータ保存期間も3ヶ月~6ヶ月
しかなく弁護士費用等も必要になるのでそう簡単ではないですよね。とにかく先ずは、発信者のURL保存するか転送して分かるようにして置く事です。【誹謗中傷ホットライン】もありますし、虐められている人に気が付いたら励ましの言葉を送ってあげると心が和むそうです。何しろ日本国では年3万人程の自殺者が出るとのことなので一人でも助けてあげられる様にしましょう。
【本を読んで自分自身の頭で考える「訓練」を、やはりこれも中学生くらいから心がける。人に対する思い、人に対する想像力が欠落していると、人の心身に危害を及ぼしてもなにも感じないロボットのようになってしまう。だから、自分の頭で考えて、自分の言動が相手を傷つけてしまうのではないかという想像力を養う必要がある。むずかしく考える必要はありません。こうしたらどうなるだろう、ああしたらどうなるだろう、という具合に、いろいろと思いを巡らせることです。】この部分は特に共感します。
このコロナ禍で、原発事故の時のように様々なヨコ文字単語をはじめとする専門用語がワイドショーやネット上を賑やかしていますが、あるテレビ番組で東京大学人文社会科学研究科准教授の古田徹也氏が、言葉の意味を分からない人たちを言論統制は無理。小学校に道徳の授業が復活したことについては、徳というものは幼少期に家庭で身につくものであり小学生に学校で教えられるものではない。むしろ言葉の使い方「不幸があった同級生に何て言葉をかけたら良いのだろうか」「差別的にならないためにはどんな言葉を選ぶのが良いか」を話し合うことの方がいい。と話しをされ提言として【言葉を選択する 責任を果たす】と言っていました。これは、その時々の状況に於いて言葉を選び、その言葉に責任を持つと言うことです。
世界中の政治家に聞かせてやりたいですね。